志布志港の歴史


志布志港は平安時代末期、日向・薩摩・大隅(三州)にまたがる

未曾有の大荘園・島津荘(しまづのしょう)の唯一の水門(港)として開かれました

島津荘は平季基が日向国島津院(現、都城市)を中心とする荒野を開発し、摂関家の

藤原頼道に寄進したのが始まりで島津荘の下司職に補任された惟宗(これむね)忠久が

荘園名をとって島津忠久と称した事が島津氏のはじまりです

その後、薩摩・大隅・日向の守護(三州)の守護職に任じられ掌握し、

京で栄華を極めた藤原氏の基盤を支えていました

志布志の町並みは、現在の市街地の東を流れる前川の河口港を中心として

形成されたと思われます。

このころから海外との交易が始められ、中世には

すでに志布志は繁栄し、藩政時代には前川河口に津口番所が置かれ、

南西諸島や京阪地方との交易による廻船(海運)業で賑わっていました。

この時代、日本は鎖国政策を執っていた事から、外国との交易は長崎のみが許されていて、

江戸時代の末期になると幕府の力が弱まるにつれ、琉球を通じての中国との直接交易が

志布志で盛んに行われるようになりました。

志布志港は地理的優位性から、その密貿易の基地として「志布志千軒の町」と言われるほどの

繁栄を支えました。

今日、志布志港は、我が国の中核国際港湾に位置づけられ、国際海運ネットワークを

形成する物流拠点港湾として世界各国の港と結ばれています。




「志布志」の名のいわれ


昔、志布志が高浜の庄と言われていた時代、天智天皇は、郷里(頴娃(えい))にお帰りなった

二の后玉依姫(にのきさきたまよりひめ)を慕い、密かに船でご臨幸されました。

帝はお帰りになった玉依姫を偲び、この高浜の地に仮の皇居を建てて暫くお住まいになりました。

ある日、近くに住む婦人が帝お気持ちを察し布のお手拭を志として献じました。

婦人の下女も主の優しい心をみならい、お手拭を志として献じまし。

帝は、上下よりの布の志にことのほか感激され

「誠にこれは上下の志の厚き志布志也」

とおっしゃり、その後、この皇居のある所を志布志屋敷というようになりました。

そして、いつとはなく、高浜の庄すべてを「志布志」と言うようになったと

志布志記が伝えています。

                    
(志布志記・・・・江戸時代に志布志郷の歴史・地誌・伝承などをまとめた古文書)

港公園の案内板にあるものを使用していますが詳しくは志布志市のHPをご覧ください
志布志市HP(観光案内)


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